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第1話 その子は誰の子だ
病院の自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いと冷たい空調の風が美月の頬を撫でた。
十月に入ったばかりだというのに、外は妙に蒸し暑かった。朝から降ったりやんだりを繰り返している雨のせいで、髪の毛先は少しだけ湿っている。相沢美月は肩に掛けたバッグの位置を直し、隣を歩く息子へ目を向けた。
「陽翔、疲れてない? 予約までまだ少しあるから、あそこの椅子で休んでいてもいいのよ」
「大丈夫。ぼく、もう六歳だよ。病院まで歩いたくらいで疲れないって」
「六歳になると急に体力が無限になるの?」
「そこまでは言ってないよ」
真顔で返してきた息子に、美月は思わず笑った。
相沢陽翔は、母親の手を借りなくても何でもできる年頃になりたがっている。最近は特にそうだった。靴紐も自分で結びたがるし、スーパーの袋も軽いほうなら持ちたがる。今朝も「診察券くらいぼくが持つ」と言い張ったのだが、さすがにそれだけは美月が断った。
六歳児の「大丈夫」は、大人のそれよりずっと信用ならない。
「じゃあ、無理そうになったら言ってね。今日は検査もあるんだから」
「うん。でもママのほうが疲れてそう」
「どうして?」
「朝、コーヒー二回飲んでた」
痛いところを突かれ、美月は返事に詰まった。
「よく見てるわね」
「だって一緒に住んでるもん」
陽翔は当然のように言ってから、少しだけ胸を張った。
その姿を見ていると、美月はときどき怖くなる。
この子は自分が思っているよりずっと多くのことを見ているのではないか。生活費を計算しながらスーパーで商品を棚へ戻したことも、夜中に請求書を前にため息をついたことも、保育園時代からずっと使っているバッグの持ち手が傷んでいることも。
だから陽翔は欲しい物を滅多にねだらない。
その健気さを「いい子だから」で済ませてしまうのは、親として少し卑怯な気がしていた。
「検査が終わったら何か食べようか。今日はご褒美」
「本当?」
「うん。何がいい?」
陽翔はすぐには答えなかった。六歳の子供なのだからハンバーグでもパフェでも好きなものを言えばいいのに、眉間に小さなしわを寄せて本気で悩んでいる。
「高いやつじゃなくていい?」
「そういうことを気にしなくていいの」
「じゃあオムライス」
「決まり」
「でも、ママもちゃんと食べてね。ぼくの残りで済ませたらだめだよ」
「……はいはい」
子供に見透かされるのは、少し情けない。
美月は笑ってごまかしながら受付へ向かった。
今日は陽翔が幼い頃から経過観察を受けている心臓の定期検査だった。日常生活に大きな支障が出ているわけではなく、医師からも過度に心配する必要はないと言われている。それでも検査の日だけは、どうしても胸の奥に重たいものが居座る。
陽翔が生まれてから、美月は何度も病院の待合室で一人きりになった。
小さな体に検査器具をつけられる息子を見守り、泣きたいときほど笑ってきた。
もし隣に誰かいてくれたなら、と考えたことが一度もないと言えば嘘になる。
けれど、その「誰か」の顔を思い浮かべることだけは、七年前にやめたはずだった。
「相沢さん、こんにちは」
受付の女性に声を掛けられ、美月は慣れた手つきで診察券を差し出した。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
「検査室が少し混んでいまして、十分から十五分ほどお待たせするかもしれません」
「大丈夫です」
「陽翔くん、今日は学校お休み?」
「午後から行きます」
「偉いねえ。検査、頑張ろうね」
「はい」
陽翔が少しかしこまって頭を下げる。その横顔を見ながら、美月はバッグから水筒を取り出した。
そのときだった。
受付の向こう側が急に慌ただしくなった。
職員たちが何人か小走りで移動し、広いロビーの一角にいた看護師が、廊下を空けるよう来院者へ声を掛け始める。
「何だろう」
陽翔が首を伸ばした。
「誰か偉い人でも来るんじゃない?」
「芸能人?」
「病院だから、そうとは限らないでしょ」
そう答えたものの、美月自身も少し気になった。
この病院は数年前に大規模な設備更新を行い、国内でも先端医療に力を入れていることで知られるようになった。企業関係者や海外の医療関係者が視察に来ることも珍しくない。
遠くでカメラのシャッター音が聞こえた。
美月はその音に一瞬だけ眉を寄せ、陽翔の肩をそっと自分のほうへ引き寄せた。
「混みそうだから、先に検査室の近くへ行こうか」
「うん」
二人で廊下を歩き出す。
そのまま何事もなく通り過ぎるはずだった。
美月にとっては、陽翔の検査が終わり、昼食を食べ、午後から学校へ送り届ける。それだけの一日になるはずだった。
けれど、角を曲がった先から聞こえてきた声に、足が止まった。
「今回の共同研究については、単なる設備提供で終わらせるつもりはありません。医療格差を減らすためには、技術を持つ側が現場に合わせる必要がある。導入実績だけを増やしても意味がないでしょう」
低く、落ち着いた声だった。
よく通るのに威圧的ではない。
それでも周囲が自然に耳を傾けてしまう声。
美月は、その声を知っていた。
知らないはずがなかった。
七年という時間が経っても、人間はこんなにも鮮明に声を覚えているのかと、自分自身が恐ろしくなった。
「ママ?」
陽翔が手を引いた。
美月は答えられなかった。
向こうから数人の男性と女性が歩いてくる。病院関係者、スーツ姿の社員、カメラを持った取材スタッフ。その中心に、一人の男がいた。
神代怜司。
七年前、美月が誰よりも愛していた男。
そして、二度と会うことはないと思っていた男だった。
以前より肩幅が広くなったように見えた。仕立てのいい濃紺のスーツに白いシャツ、余計な装飾のないネクタイ。若い頃から整った顔立ちだったが、三十一歳になった彼には、当時なかった張り詰めた雰囲気が加わっていた。
雑誌やニュースで何度か見たことはある。
世界的な医療テクノロジー企業を率いる若きCEO。
神代グループの異端児。
企業価値を数年で何倍にもした経営者。
そんな言葉で紹介されていた。
けれど、画面越しに見る彼と、今ここにいる彼はまるで違った。
美月の胸に残っているのは、コンビニの安いコーヒーを飲みながら「苦い」と文句を言った二十四歳の怜司だった。料理もできないくせに夜中にパスタを作ろうとして、鍋底を焦がした男だった。
雨の日、傘を持っていない美月を迎えに来て、自分の肩をびしょ濡れにした人だった。
そして最後には、美月を捨てた男。
喉の奥が狭くなった。
「……帰ろう」
「え?」
「陽翔、こっち」
「でも検査は?」
「あとで事情を話すから」
自分でもおかしいことは分かっていた。
ここまで来て、息子の検査をやめるなんてできるはずがない。
それでも体が逃げようとしていた。
陽翔の手を強く握りすぎていることに気づき、美月は慌てて力を緩める。
「ママ、痛くはないけど……どうしたの?」
「ごめん。何でもない」
何でもないわけがない。
怜司はまだこちらに気づいていなかった。
今なら間に合う。
別の廊下へ入ればいい。検査室には反対側からも行ける。今日さえ顔を合わせなければ、これまで通りの生活へ戻れる。
そんな考えを、美月は本気で信じようとした。
七年間、会わなかった。
それなら八年目も会わなくていい。
九年目も十年目も、その先も。
陽翔には何も知らせなくていい。
「陽翔、こっちから行こう」
美月が方向を変えようとしたとき、背後から病院職員の声が飛んだ。
「相沢陽翔くん、検査室の準備ができました」
「あ、はい!」
陽翔が反射的に返事をした。
やめて、と言うには遅かった。
美月は目を閉じたくなった。
相沢陽翔。
その名前が廊下に響いた。
怜司たちの一団はすでにすぐ近くまで来ている。
美月は顔を伏せたまま、陽翔の背中を押した。
「先に行って。先生が待ってるから」
「ママは?」
「すぐ行く」
「本当?」
「本当よ」
嘘だった。
ほんの数分でもいいから、今は陽翔を怜司から遠ざけたかった。
陽翔は納得しきっていない顔をしたものの、検査室の看護師に呼ばれ、小走りで廊下の先へ向かった。
これでいい。
そう思った直後だった。
「……美月?」
七年前と同じ呼び方だった。
苗字ではない。
相沢さんでもない。
たった二文字の名前を聞いただけで、美月の体から力が抜けそうになった。
振り向きたくなかった。
けれど、振り向かないことのほうが不自然だった。
美月はゆっくり顔を上げる。
怜司が立っていた。
さっきまで取材相手へ向けていた穏やかな表情は消えている。
目を見開いたまま、信じられないものを見るように美月を見つめていた。
「……久しぶり」
どうにかそれだけ言った。
自分でも驚くほど普通の声だった。
怜司はすぐには返事をしなかった。
彼の周囲にいた人間たちが、二人の間に流れる空気の異常さを察したのか、戸惑ったように足を止めている。
社員らしい男性が遠慮がちに声を掛けた。
「神代社長、次の視察ですが」
「五分だけ待ってくれ」
怜司は美月から目を離さないまま言った。
「ですが、取材の時間が——」
「五分でいい」
静かな口調だったが、それ以上言わせない響きがあった。
同行者たちは顔を見合わせ、少し離れた場所へ移動していく。
二人きりになったわけではない。
病院なのだから人はいくらでもいる。
それなのに、美月には周囲の音が急に遠くなったように感じられた。
「本当に……美月なのか」
「幽霊に見える?」
「そういう意味じゃない」
昔なら、少し困ったように笑ったかもしれない。
けれど今の怜司は笑わなかった。
「七年だぞ」
「数えてたの?」
「数えなくても覚えてる」
美月の胸に、小さな苛立ちが生まれた。
そんな言い方をされる筋合いはない。
「そう。私は別に、毎年記念日みたいに数えてないけど」
「……変わったな」
「七年経てば変わるでしょ」
「そうだな」
怜司の返しは思ったより静かだった。
その落ち着きが、逆に美月を苛立たせた。
七年前に何も言わず自分を切り捨てた人間が、今さら傷ついたような顔をすることが許せなかった。
「仕事中なんでしょ。呼ばれてるわよ」
「美月」
「私は息子の検査があるから」
言ってから後悔した。
息子。
口にしないつもりだった言葉が、あまりにも自然に出てしまった。
怜司の表情が変わった。
「……息子?」
美月は答えなかった。
「結婚したのか」
「あなたには関係ないでしょ」
「関係ないのは分かってる。ただ——」
そこで怜司は言葉を切った。
何か言いたいのに言えない。
昔からそうだった。
怜司は怒るより先に考える男だった。考えすぎて黙り込み、結果として相手を余計に苛立たせることがある。
その癖まで覚えている自分が嫌だった。
「もう行くね」
「待ってくれ」
「何を話すの? 七年ぶりに偶然会った元恋人と、近況報告でもする?」
「そういう言い方をするな」
「じゃあ、どういう言い方ならいいの?」
少しだけ声が強くなった。
怜司が眉を寄せる。
「俺たちが最後に会ったときのことを、お前がどう思ってるのか分からない。でも——」
「最後に会ってないじゃない」
「……何?」
怜司の顔に、初めてはっきりと戸惑いが浮かんだ。
美月は自分でもなぜ口にしたのか分からなかった。
七年間、誰にも言わず胸の奥に押し込めてきたものだった。
「何でもない」
「今、最後に会ってないって言っただろ」
「聞き間違いよ」
「そんなわけ——」
「ママ!」
廊下の先から陽翔の声がした。
美月の心臓が大きく跳ねた。
検査室へ入ったはずの陽翔が、看護師と一緒にこちらへ戻ってくる。
「ごめんなさい、お母さん。検査前の確認書類に一箇所だけ記入漏れがあって」
「あ……すみません」
美月は慌てて迎えに行こうとした。
けれど、陽翔のほうが先に駆けてきた。
「ママ、これだって」
「ありがとう」
差し出された紙を受け取る。
その瞬間、美月は気づいた。
怜司が何も言わなくなっている。
嫌な予感がした。
ゆっくり振り返る。
怜司は、美月を見ていなかった。
陽翔を見ていた。
正確には、陽翔の顔だけを凝視していた。
血の気が引くとはこういうことなのだと、美月は初めて知った。
怜司の目がわずかに揺れている。
それも当然だった。
陽翔は、美月に似ているところもある。
目元は美月の母に似ているし、笑ったときの頬の形は美月自身によく似ている。
けれど、黙って真剣な顔をしたときだけは違った。
眉の形。
鼻筋。
顎の輪郭。
そして何かを考えるとき、わずかに下唇を噛む癖。
それは幼い頃の怜司そのものだった。
美月はそれを知っている。
怜司の実家で昔のアルバムを見せてもらったことがあったから。
「ママ、この人だれ?」
陽翔が美月の袖を引いた。
怜司の肩がかすかに動いた。
美月は答えようとした。
知り合い。
昔の友達。
仕事で会った人。
いくらでも嘘は作れるはずだった。
なのに声が出ない。
「……美月」
怜司が呼んだ。
さっきまでとはまるで違う声だった。
低いのに、どこか掠れている。
美月は陽翔を自分の後ろへ隠すように一歩動いた。
「やめて」
「何が」
「今は何も聞かないで」
「聞くなっていうほうが無理だろ」
怜司は陽翔を見たまま言った。
「何歳なんだ」
「関係ない」
「美月」
「関係ないって言ってるでしょ」
怜司の表情から、少しずつ色がなくなっていく。
彼は頭の中で計算している。
美月には分かった。
六歳。
七年前の別れ。
妊娠期間。
誰でも辿り着ける答えだった。
「ママ?」
陽翔が不安そうに見上げている。
これ以上、この子の前で続けるわけにはいかない。
美月は看護師へ向き直った。
「すみません、書類はすぐ記入します」
「はい。あの……大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
それでも母親は、子供の前では何度でも大丈夫と言える。
美月はペンを取ろうとした。
しかし、その前に怜司が一歩だけ近づいた。
「待て」
「近づかないで」
「答えてくれ」
「ここは病院よ。騒がないで」
「俺は騒いでない」
「だったら仕事に戻って」
「美月」
その呼び方が、七年前より近く感じた。
美月は顔を上げる。
怜司の目は赤くなっていた。
怒っているわけではない。
責めているだけでもない。
そこにある感情を、美月はうまく読み取れなかった。
ただ一つだけ分かった。
怜司もまた、今この瞬間に何かを失いかけている人間の顔をしている。
彼は陽翔を見た。
それから美月を見る。
唇がわずかに震えた。
「……その子は、俺の子か?」
第27話 生きているよ 「ぼくのお父さんって、生きてる?」 その問いを聞いた瞬間、美月の中で、いくつもの答えが浮かんでは消えた。 まだ話すには早い。 もう少し大きくなってから。 今は知らなくていい。 ママがちゃんと考えるから。 どれも、以前の美月なら口にしていたかもしれない。 陽翔を守るためだと言い聞かせながら。 けれど今、目の前にいる息子は、何も分からない幼児ではない。 自分の過去に興味を持ち、自分と周囲を見比べ、大人たちの言葉を拾い、その意味を考え始めている。 何より陽翔は、死んでいるのかと聞いた。 そこへ嘘を重ねる理由はなかった。「生きてるよ」 美月は、ゆっくり答えた。 陽翔の指が、布団の端をつまんだまま止まる。「……生きてるの?」「うん」「ほんとに?」「本当」 美月は息子の手を握ったまま、もう一度はっきり言った。「陽翔のお父さんは、生きてる」 陽翔はしばらく何も言わなかった。 驚いたようにも見えたし、安心したようにも見えた。 でも六歳の顔の中には、どちらとも言い切れないものがいくつも混じっている。「じゃあ」 陽翔は少し考えてから言った。「どこにいるの?」 美月の胸がきゅっと縮む。「それは……」「遠いところ?」「遠くはないよ」 言ってから、自分で苦笑しそうになった。 物理的には。 少なくとも今は。 けれど、六年間という距離はどう説明すればいいのだろう。「日本にいる?」「いる」「同じ町?」「それは違う」「会ったことある?」 美月の呼吸が一瞬止まった。
第26話 僕のお父さんって、生きてる? 陽翔が父親の話をしたのは、何か特別な出来事があった日ではなかった。 むしろ、美月にとっては拍子抜けするほど普通の木曜日だった。 朝はいつものように目覚ましを二度止め、陽翔に「ママ、あと十分って言ったのに十五分寝てた」と指摘され、慌てて朝食を並べた。新しく買った上履きには陽翔が自分で名前を書き、最後の「翔」だけ少し右上がりになっていた。「これ、読める?」「読めるよ」「変じゃない?」「自分で書いたんだから十分上手」「ママより?」「そこは比べなくていい」「ママの字、急いでると怖いよね」「朝から喧嘩売らないで」 そんなやり取りをして、陽翔を送り出した。 仕事も普段どおりだった。 午前中は三人の子供のリハビリを担当し、昼には冷めた弁当を食べ、午後は記録入力に追われた。怜司からも連絡はなかった。 七年前の調査については、いったん新しい証言を待つことになっている。 だから美月も、意識して考えないようにしていた。 考えたところで、今すぐ答えが出るものではない。 誰が二人を引き離したのか。 どこまで意図的だったのか。 それを知ることは必要だ。 けれど、その答えだけを追い続けていたら、今の生活まで七年前に飲み込まれてしまう。 美月には仕事があり、陽翔がいる。 洗濯物もたまるし、冷蔵庫の牛乳は切れる。 人生は、大きな秘密があっても普通に夕食を要求してくる。 ◇「今日ね、翔太くんのパパ来てた」 夕食の途中、陽翔が唐突に言った。 美月は味噌汁をよそっていた手を止めた。「学校に?」「うん。忘れ物持ってきたんだって」「何を忘れたの?」「図工で使う箱。先生に『また忘れたの?』って言われてた」「陽翔も笑えないでしょう。この前宿題
第25話 誰かが、私たちを別れさせた 翌日の午後、怜司は七年前に神代家秘書室へ勤務していた女性と会っていた。 場所は本社ではない。 相手が神代家との関係を周囲に知られたくないと希望したため、都心から少し離れたホテルのラウンジを使った。怜司も秘書を同席させず、調査担当者だけを一人連れている。 向かいに座る女性は六十代半ばだった。 当時は沙耶の個人秘書を兼ね、神代家の私的な予定や連絡を扱う部署にいたという。「突然お呼び立てして申し訳ありません」 怜司が頭を下げると、女性は緊張した面持ちで首を振った。「いえ。ただ、七年も前のことですから、どこまで正確にお答えできるかは……」「覚えていないことは、覚えていないと言ってください。推測で埋めてもらう必要はありません」「分かりました」 怜司はテーブルの上へ一枚の資料を置いた。 当時の携帯電話契約に関する記録だった。「事故で俺の端末が破損したあと、着信制限と一部転送設定が行われています。申請者として、あなたの名前が残っていました」 女性は眼鏡を掛け直し、資料へ目を落とした。 しばらく見つめてから、ゆっくり頷く。「私の字ですね」「覚えていますか」「端末の手配をしたこと自体は覚えています。怜司様は事故直後、意識が戻っても体調が安定しておられませんでしたから、ご家族や病院と相談して、外部からの連絡を一度整理する必要があると……」「外部からの連絡を整理する、というのは?」「仕事上の電話、取材、親族からの連絡、それから……私的な連絡です」 怜司は表情を変えなかった。「特定の相手からの電話を止めるよう指示された記憶はありますか」 女性はすぐには答えなかった。 その沈黙だけで、怜司の胸の奥が冷えていく。「あります」 ようやく女性が言った。
第24話 その手紙を、俺は読んでいない 七年前の郵便物について調べ始めてから三日後、怜司のもとへ最初の報告が届いた。 朝八時半。 KAMISHIRO MEDICAL本社の執務室にはまだ人の出入りが少なく、窓の向こうでは曇った空の下を車の列が流れている。 怜司はコーヒーへ手をつける前に、調査担当者から送られてきた資料を開いた。 七年前。 交通事故で入院していた期間。 当時、怜司が住んでいたマンションの郵便物は、一定期間、本人ではなく神代家側の管理担当者が回収していた。 そこまでは予想していた。 事故直後は意識がなく、その後もしばらく入院が続いた。公共料金、クレジットカード、会社関連の書類、契約関係など、放置できない郵便物があったためだ。 問題は、その先だった。『回収担当者が郵便物を神代家資産管理室へ運搬。その後、業務・契約・金融関係と私信に分類し、必要書類のみ病院または秘書経由で本人へ届けていたとみられます』 怜司は文章を読み返した。「私信に分類……」 声に出す。 次の資料へ進む。 当時の簡易業務マニュアルの写し。 そこには、入院中の怜司宛て郵便物について、『本人への負担を避けるため、至急性・重要性を家族側担当者が判断する』 と記されていた。 怜司の眉が寄る。 本人への負担。 随分と便利な言葉だ。 見せるかどうかを、本人ではない人間が決められる。 ページをめくる。 当時の郵便物管理担当者は二名。 一人はすでに退職。 もう一人は現在も神代家の関連会社に籍がある。 調査担当者からの補足が続く。『当時の回収担当者の一人に、本人の同意を得たうえで聞き取りを実施しました。個々の郵便物について記憶はないとのことですが、「女性名義の私信」については、資産管理室へ渡した後、神代家秘書室側で確認し
第23話 七年前に送った手紙 日曜日の朝、美月は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っぱり出した。 衣替えをするつもりだった。 それだけだったはずなのに、冬物のニットを探している途中で、奥に押し込んだまま何年も触れていない箱が目に入った。 ふたの端が少し潰れている。 大学時代のノートや昔の写真、使わなくなった小物をまとめて入れた箱だった。「ママ、何してるの?」 背後から陽翔が覗き込む。「冬の服出してたら、昔のもの見つけたの」「宝箱?」「そんな立派なものじゃないよ」「開けていい?」「待って。変なもの入ってるかもしれないから」「変なものって?」「大人になると、昔の自分を見るのがちょっと恥ずかしくなるものがあるの」「写真?」「写真も」「見たい」「見せません」「何で?」「ママにも人権があります」「ぼくもあるよ」「知ってます」 陽翔は納得していない顔をしたが、今日は友達と遊ぶ約束がある。 玄関からインターホンが鳴ると、興味はあっさりそちらへ移った。「来た!」「上着持って。あと四時半には帰ってくるのよ」「分かってる!」「お菓子食べすぎない」「分かってる!」「道路飛び出さない!」「それも分かってる!」 返事だけは勢いがいい。 美月は玄関まで送り、友人の母親へ頭を下げた。「いつもすみません」「全然。うちの子が陽翔くん来るの楽しみにしてるから」「四時半には迎えに行きます」「ゆっくりでいいよ」「ありがとうございます」 陽翔が振り返る。「ママ、宝箱勝手に全部見ないでね」「ママの箱なんだけど」「面白いのあったら残しておいて」
第22話 あなたは、本当に知らなかったんだね 公園で三人そろって走った翌日、美月はひどい筋肉痛になった。 朝、目覚ましを止めようと布団から起き上がった瞬間、太腿の裏に鈍い痛みが走る。「……痛っ」 思わず声が漏れた。 隣の部屋から、すぐに陽翔が顔を出す。「ママ、どうしたの?」「何でもない。ちょっと足が」「昨日走ったから?」「……たぶん」 陽翔の顔が、みるみる楽しそうになる。「ママ、弱い」「誰のせいで走ったと思ってるの」「でもママ、本気だったじゃん」「『負けるの怖いんでしょ』なんて言われたら、本気にもなるでしょう」「大人げない」「その言葉、誰から覚えたんだっけ?」「ママ」「教えるんじゃなかった」 陽翔は笑いながら、自分の足を何度か屈伸させた。「ぼく全然痛くないよ」「六歳と二十九歳を比べないで」「怜司さんも痛いかな」「さあ。あの人は一応運動してそうだし」「聞いてみようよ」「朝からそんなことで連絡しないの」「何で?」「大人には仕事があるからです」「ママも仕事あるじゃん」「だから今から準備するの」 そう言いながら立ち上がろうとして、また脚が痛んだ。 陽翔が吹き出す。「やっぱり痛いんじゃん」「笑わないで」 朝からこんな調子では、一日が長そうだった。 ◇ ところが、出勤して一時間ほどすると、今度はスマートフォンが震えた。 休憩時間に画面を見る。 怜司からだった。『昨日、走ったせいで少し脚が痛い』 美月は思わず笑った。 陽翔の言葉を思い出す。『私も』







